人間とポケットサイズの妖精
−悦ばしき絶望−
沖田がその建物に入った事は、隠れている隊服の布越しに匂ってきた消毒薬と据えた病気の匂いで分かった。
隊服のジャケットに潜り込み、垂れ下がるスカーフにコアラかオラウータンの赤ちゃんの様にしがみつていれば、慣れ親しんだ沖田の匂いと、少しの汗の匂いと、もう染み付いて取れない硝煙と血の匂いとが、混ざり混ざって緊張で破裂しそうなの小さな心臓を落ち着かせる。
そこに無遠慮に、焼きたてのケーキに竹串を指すように無造作に、不快な空気が侵入してくると、今度はきゅぅっと心臓が窄まり、凝固してしまいそうになった。昨日、山崎からしてた匂いを何十倍も濃くした匂いだった。
「げ」
真っ暗な服の中、身を縮めてひたすら外の音に耳を澄ませていたの耳に、実に嫌なモノを見たと言う響きの声が届いた。
「今日はお前かよ。昨日といい、何なの?お宅ら暇なの?」
「旦那んとこのご主人様のお呼びでさァ。文句があんならせんせーに言ってくだせィ」
「・・・・・・あー、なんかンな事言ってたなァ・・・・・・で?肝心の患者は?」
声の主はこれから診察をする医者の妖精。坂田銀時と名乗る彼は、人間と同じサイズになるという、妖精として極めて珍しい能力を持っている。
そしてその能力をフル稼働させ、万事屋を営んでいる。
さらに驚くべき事に、彼は妖精でいる時間より人間でいる方が長く、相棒と離れている時間の方が長い。
の価値観からは到底理解できない。以前その理由を聞いたら、病院が嫌いなんだと冗談めかして返された。
それならどうして今日に限って、このタイミングで現れるのだろうか。
「患者じゃないもん」
無意味な反論をする為、沖田の懐から這いだすと、ニヤリと意地の悪い顔が迎えた。沖田のニヤリよりもずっと年季と複雑な感情が入り混じった微笑に、歯を食いしばり一文字に引き結ばれたの唇がへの字に歪む。
沖田は良くも悪くもいつだって単純で真っ直ぐだ。他人から見たら難しい子と思われるかも知れないが、感情の境界が浸透性のセロファンほどしかない妖精にとって相棒の感情を読みとることなど、駄菓子屋でおつりの暗算をするより簡単なことだった。
少なくともにとっては。
だからこの理解しがたい知人は少し苦手で、でも興味深くもある。
「ちゃんと逃げずに来たな。偉い偉い」
人間サイズの銀時の手のひらは沖田のそれより一回り大きい。無骨な手のひらにふわりと頭をひと撫でされた。少し固いそれは、しかしを少しも傷つけない。それどころかさすがは仮にも妖精である。絶妙な力加減に思わずうっとり目を閉じる。
「勝手に触んないでくだせィ」
頭上から降ってきた不機嫌な声にビクリと体が震えた。
「まあ、そう怒んなよ。臆病なおちびさんの迎えなんだから」
そういいながら、撫でていた手で沖田の懐から取り上げられる。
最後のバリケードがあっさり破れた診察室から呼ばれるものと思っていたのに、こんなの騙し討ちじゃないか。
しかし何やら急に怒り出した沖田は怖くて振り向けないし、柔らかく、だけどしっかりと自分を握る手からは逃れられそうもなく。
ただ拳を握り、唇を震わせるしかできなかった。
+++
「はーい、ちゃん入りま〜す」
ワザとであろうのん気なセリフも耳に入ることなく、の周りを逃げていく。
診察室の扉をくぐると、一層消毒薬の、薬の、病院の臭いが増した。一仕事成し遂げた妖精と、その相棒である女医が何か話しているがそんなものに耳を傾ける余裕はこれっぽっちもなかった。
じっと床の木目を睨みつけるの視界に、女医の白い白衣や、薄い水色の仕切り、固そうな診察台に座り心地の悪そうな丸イス、机中に貼られたメモや資料がぐるぐると映り込み目が回りそうになる。ふーっふーっと荒くなる息を何とか飲み込もうと口を閉じたら今度は涙が出そうになった。
「よぉし、じゃ、ちゃんぬぎぬぎしましょうね〜」
「・・・・・・銀さん、変態臭いです」
ポンっと小さな音がしたような気がすると、目の前に妖精サイズに戻った銀時がいた。
「ったく、相変わらず色気のねぇ服着てんなぁ。脱がしにくいでしょ」
の服は、基本的に沖田とお揃いだ。
沖田がオフなら、袴姿。仕事の日はミニチュアサイズの隊服を着ている。
健康診断は仕事に入らないと思うのだが、習慣とは恐ろしいもので、きちんと隊服を着込む沖田に、気がつけばも倣っていた。
硬い生地のジャケットから腕を抜かれ、ベストのボタンも外され、手触りのいいスカーフを解かれる。
シャツ一枚になった頃には、小さな妖精の心臓はすっかり縮み上がり、硬直した体はもう自分で動かすことも出来なくなっていた。
の医者嫌いは全て沖田に起因する。
幼い頃から病弱だった彼の姉。もうどうしようも無い病気を前に、プライドが高く、ひねくれ者の相棒は心の底から救いを求めていた。
何度も助けてくれと懇願していた。
その願いも虚しく、無情にも「もう長くない」と伝えた医者の声が忘れられない。
それを聞いたときの沖田の心が忘れられない。
あんなに助けてくれと慟哭していたのに。
医者は何もしてくれなかった。
そして、沖田が怪我をしたときの、正気とは思えない治療。凶器と何が違うのか納得させられるものならしてみろと挑みたくなるような銀色を使って、ただでさえ痛い傷口を切ったり縫ったり。痛い目に遭わされているのに、沖田の心には恨み言一つ無いのが空恐ろしい。
怪我をしたのは沖田が迂闊だったからかも知れないが。
だからと言って、何故さらに恐くて痛い目にあわなくちゃならないのか。
の中で医者は沖田を傷つけるだけの存在だ。
が虚空を睨みつけ、全身を強ばらせている間に着々と検査は進んでいく。
身長体重体脂肪率が一気に計れる機械に銀時が押し込み、アダプターを通したディスプレイに数字を女医がカルテに書き写す。
続いて小さな丸イスに座らせられたかと思うと、銀時は手慣れた様子で灰色の腕輪の様なものをはめてきた。肘を越え、二の腕の半ばに装着された未知の装置にの口元が不安で歪む。
浅く乱れた呼吸に小さな胸だけでなく、肩までが小刻みに上下しているのが見て取れる。
何をそんなに怯えているのか、ただの血圧計測器だ。こっそり脈拍も計ってしまえる優れもの。
何も痛いことはない。
しかし力み過ぎてふるふると震えるに銀時はため息を1つ落とし、相棒を見上げた。
「あ〜、もう無理じゃね?こんなんじゃ正確な数字なんかでねぇよ」
「・・・・・・仕方無いですね」