マイナスからの出発
再びが目を覚ましたのは翌朝になってのことだった。
まだ薬が効いているのか、飛び起きるような事はしない。
布団の中で大きな目を見開き、じっと息を潜めて周囲をうかがう。
静かな部屋に、自分の呼吸音だけが響く。
やがて廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
何気ない歩き方だが、足音の主は何らかの武術の手慣れであることがわかる。
足音は部屋の前で止まり、ためらう事無く襖が開け放たれた。
「おはよーごぜィやす、。寝坊にもほどがありやすぜィ」
明るい声と共に顔を覗かせたのは沖田だった。
さすがに身を起こしたは左半身に引き攣るような痛みを感じて眉をひそめた。
「気分はどうでィ?」
見覚えのある、知らない男。
「・・・・・・」
「朝飯は?食べられそうかィ?」
聞きなれない口調。
「・・・・・・」
「・・・・・・何か食わねェと参っちまいやすぜ。おかゆ持って来たから少しで良いから食べなせィ」
ふるふると首を振るを無視して朝食が準備された。
小さな土鍋の蓋を開けるとふんわりと出汁のいい香が漂う。
沖田はそれを小さな器に取り分け、レンゲで一口すくい軽く冷まし、の口元へ運ぶ。
しかし当然というべきか、は顔を背けそれを拒否する。
ある程度予想していた反応に、沖田はため息を吐いた。
(手負いの獣、追い詰められた兎、ね)
医者の言葉を思い出す。
「大丈夫ですぜ。毒なんて入ってねェでさァ」
言葉で言っても伝わらない。
そう思い沖田は持っていた一匙を口に運んだ。
おかゆというよりは雑炊に近い。
「ほら、早くしないと全部食っちまいますぜ」
冗談交じりに言いながら、一口二口とレンゲを運ぶ。
それを横目で見ていたのお腹がきゅ〜っと鳴く。
考えてみれば祭りの晩から何も口にしていない。
普通なら空腹で倒れそうになっている所だろう。
「口開けないと無理やり食わせやすぜ。口移しで」
その台詞に観念したのか、はたまた空腹に耐えられなかったのか、は渋々レンゲに半分残されたおかゆを口に入れる。
少し時間が経ってふやけたそれは、優しい味がした。
***
完璧に信用しているわけではないらしいは、沖田が半分口をつけたレンゲしか受け付けない。
警戒心があるようで、しかし見知らぬ男(にとっては)との間接キスには無頓着な様子。
これが自分じゃなくても食べるのだろうかと思い面白くない。
昨日一晩島麻の言葉を考えた。
「記憶を戻させるな」など冗談ではない。
このまま自分を忘れたままになどしておけるものか。
しかしが何かに怯えているのも紛れも無い事実。
優先順位を考えた。
記憶の方はあとで何とでもなる。
いや、この頑なな警戒を解かない事にはどうしようもない。
沖田は自分と、この屯所は絶対安全だとに刷り込むことを最優先事項に掲げた。
(とはいっても・・・・・・何をどうすればいいんだか・・・・・・)
食後に飲ませる薬を用意しながら、これからの事を考える。
島麻が置いていったのは鎮痛解熱剤と軽い睡眠薬。
昼過ぎにまた往診に来るとも言っていた。
「はい、これ薬でさァ。これァさすがに半分個するわけにゃいかねェから1人で飲みなせィ」
「・・・・・・薬、いや」
「ワガママ言うなィ」
「いや」
「・・・・・・じゃあこれだけでいいから」
「いやです」
頑なに薬を拒否し続ける様子にさっそく頭を抱える。
「飲まないと傷、痛みますぜ」
「平気です」
「治るの遅くなりますぜ」
「そんな薬じゃありません」
一瞬本当に口移しで飲ませてやろうかと頭をよぎるが、飲まなくても本人が痛いだけ。
どうせ午後には島麻がやってくるのだ。
無理強いはやめておこうと結論に到った。
食事が終わっても沖田は席を立たない。
どちらも何も言わず、奇妙な沈黙が部屋へ訪れる。
沖田はいつものポーカーフェイスで、は普段からは考えられない様な無表情で。
「・・・・・・・・・・・・名前」
先に口を開いたのはだった。
「ああ、沖田でさァ。沖田総悟。一番隊の隊長やってまさァ。ま、好きに呼んで下せィ」
沖田は賭けに出た。
記憶が遡っている少女は自分を何と呼ぶのだろう。
に名前を呼んでもらえるようになるまでずいぶん掛かった。
今だって平常状態は「隊長さん」だ。
「アナタのじゃなくて、私の」
しかしの興味は沖田自身の名前になどなかった。
その事に少なからずショックを受ける。
「お前ェ自分の名前覚えてたじゃねェか」
「いえ・・・・・・どうして私の名前を知っているんですか」
「・・・・・・(こんなのどう答えろっていうんでィ)」
「記憶障害って・・・・・・何」
「!?・・・・・・お前ェ一体どこまで分かって?」
「昨日・・・?医者の人が言ってました。11歳の時まで遡ってるって・・・・・・どういう意味ですか?それにこの怪我・・・・・・。どうして私江戸にいるんですか?真選組って・・・・・・なぜ?」
は昨晩目が覚めて、沖田や島麻と交わした会話を全て覚えていた。
覚えてはいたが理解はしていなかった。
見知らぬ人間が、おかしなことを話している―――くらいにしか思っていなかった。
しかし一晩明けても状況は変わっていない。
相変わらず傷は痛むし、知らない人が看病についている。
信用はしていない。
隙を見て逃げなければ。
でも現状が全く分からない。
自分の知らないところで何かが起きている。
少なくともここにあいつはいない。
とりあえず、目の前の男に聞いてみるしか方法が無いではないか。
沖田は、記憶が混乱していても変わらないの聡明さに目を見張る。
鋭い状況把握能力。
「、お前ェ今いくつだィ?」
「・・・・・・11歳、だと思います」
「ちょっとこれ見ろィ」
論より証拠。
沖田は大振りな手鏡をの前にかざす。
はそこに映る自分の顔を凝視し、次いで自由の利く範囲で自分の体を触って確かめた。
「どうでィ?」
「どうって・・・・・・あんまり変わりませんけど・・・・・・」
「変わってねェって、お前ェどれだけ童顔なんだ?」
「あ、でも一応成長してる?かも」
「・・・・・・そういうところは変わんねェんだなァ」
顔を見ても良く分からなかった。
記憶にある顔より幾分年を重ねただろうか?
なんだか頬の辺りが丸くなったような気はする。
それよりも明らかに成長している胸を触り、知らないうちに体が年を取ったことを知る。
(いや、体は変わっていないのかな?)
「今、私はいくつなんですか?」
「16のはずでさァ」
「16・・・・・・。16歳の私はあなたと知り合い?」
「そうですぜ。はかぶき町のおんぼろ長屋に住んでいて、短期アルバイトで食いつなぎながら怪しい探偵業をやってやした」
島麻の忠告など聞いていられない。
本人が望んでいるのだ。
のことを本人に伝えて何が悪い。
かなり偏った情報だが。
「・・・・・・・・・・・・よく、わかりません」
「まあ、俺もいきなりお前ェは22で役職は副長だって言われたら・・・・・・それは嬉しいけど実感はわかねェや。やっぱ土方さんの息の根はこの手で止めねェと・・・・・・あ、いや、こっちの話でィ。―――まあ、焦る必要はねェでさァ。まずは怪我を治すことに集中しなせィ」
「・・・・・・あなたは、私の何?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・それは自分で思い出してくだせィや」