暗闇の中の決意
―――、あんたは逃げなさい
なんで!あたしも戦える!
―――いいから言う通りにしな!必ず後から追いかけるから。
やだ!やだよ、師匠。あたしも連れてって!
―――足手まといはいらないんだよっ。あたしはアンタを死なせるために鍛えたんじゃない!
ガサガサと草を掻き分ける音が聞こえないくらい、自分の呼吸が煩い。
全身が心臓になったみたいにドクドクしてる。
枝に引っ掛け、石に躓き、涙と血に濡れながらがむしゃらに走った。
言われた通り後ろを振り向かず、つい昨日までは自分の庭のように遊び回った山中を駆け抜ける。
疲れて足が縺れても
こけて両手を擦りむいても
やがて速度は走っているなんて言えない様なものになり――――――気がついたら道場の門の前にいた。
熱に浮かされた様に門をくぐる。
リアルな夢を見てるみたい。
息が上がっているのは、悪夢の所為。
体中が痛いのは金縛りにでもあっていたからだろう。
夢遊病のケでもあるのだろうか。
夜中に抜け出して、山中走り回ってたなんて知られたらまた師匠に怒られちゃう。
いや、呆れられるかな?
―――逃げなさい
ううん。
言いつけを破ったからきっと怒られる。
道場には誰もいなかった。
台所にも、居間にも、寝室にも・・・・・・。
どこにもいない。
師匠も、他の仲間たちも。
急き立てる不安から逃れようと、片っ端から扉を開く。
決して狭くない屋敷の、およそ考え付く全ての部屋を確認し、再び大きな恐怖が襲いかかる。
誰もいない屋敷。
―――逃げなさい
なんで
―――逃げなさい
なんで誰もいないの?
―――死なせるために鍛えたんじゃない!
死。
師匠は私だけおいて、みんなを連れて死地へ赴いたのだろうか。
私をおいて。
ガダン
私の呼吸音しかしなかった周囲に、不意に物音が響いた。
ただでさえ、早鐘の様に響いていた心臓が一際大きく跳ねる。
背後に人の気配。
血の匂いと、死の気配を強くまとった。
怖くて後ろが向けない。
「よォ、ってのはお前だな?」
悪い夢から醒める。
より深い悪夢へと―――
***
声にならない悲鳴と共に飛び起きる。
真夜中の部屋には私一人。
血の匂いをさせたあの男はいない。
でも師匠も、誰もいない。
月明りしかない部屋に一人きり。
肩の傷が鈍く痛んだ。
「っ―――!し、しょ・・・・・・っ」
押さえ切れない嗚咽の合間に親代わりのあの人の名前を呼ぶ。
どんな小さな声でも、声に出さなくったってあの人は気付いてくれた。
昼間は厳しい師匠も、夜陰に怯える私のことだけは思いっきり甘やかしてくれた。
こんなに寂しいのに。
こんなに心が叫んでるのに。
もう師匠は来てくれない―――
***
その夜、目が覚めたのは本当に偶然だった。
基本的に昼夜を問わず寝汚い俺が、理由もなく目覚めるなんてコトは滅多にあることじゃない。
妙にはっきりと冴えてしまった頭を持て余し、障子越しの月明かりに薄ぼんやりと見える天井を眺めていると、不意に胸騒ぎが襲ってきた。
布団を跳ね除け、飛び起きる。
周囲に不審な気配は何もない。
だけど頭でも神経でも無い「何か」が、寝ている場合じゃないと告げてくる。
居てもたってもいられなくなり、急いで部屋を後にする。
彼女の無事を確かめに。
***
気配を殺しての部屋の障子の前に立つと、かすかに聞こえてくる嗚咽交じりの声。
耳を澄ますと、確かに「師匠」と。
会話の端々に出てくる彼女の育ての親は、俺にとっての近藤さんのように、唯一無二の絶対的な存在なのだろう。
親代わりの人、それも故人に妬くのはお門違いだなんて百も承知。
ただ、今。
俺のことを知らないの中には、その『師匠』とやらしか存在しないことが、悔しくて仕方が無い。
「っ!誰っ!?」
気配が漏れてしまったのだろう。
誰何の声とともに、鋭い殺気が向けられる。
こんな殺気を放つ11歳。
人のことは言えないが、末恐ろしい。
「俺でさァ」
なるべく、怖がらせないように、努めて平静を保って答え、障子を引くとは布団の上で扇を構え臨戦態勢に入っていた。
開いた扇から伸びた鋼線が月明かりを反射してキラリと光る。
「だ、れ?」
「っ――――――沖田、でさァ」
寝ぼけているのか、本当に忘れているのか、姿を見せても誰かと問う言葉に、胃が引き絞られるような感覚に見舞われた。
込み上げてくる何かを無理やり押し込み、名を告げる。
「お、きた・・・・・・沖田、さん?」
「ああ」
俺が誰か分かると、はあっさり殺気を引っ込め、扇を下ろす。
どういう構造になっているのか、鋼線を仕舞う。
「ごめん、なさい」
「どうかしたんですかィ?」
月明かりに、涙の跡が見えた。
部屋に入り、布団の上に蹲るの足元に跪き、そっと涙の跡を拭う。
「怖い夢でも見やしたか?」
「――――――し、しょう・・・っ」
「ん?」
「師匠が居ないの。師匠もっ和一兄も紫ちゃんもっみんな―――道場にも、お部屋にも、お風呂場にも・・・・・・物置も見たのに。あたしを置いていなくなっちゃったっ。あたしがっ・・・・・・ちゃんと逃げなかったからっ!戻って行ったりしたからっ」
夢の内容を語りだした途端、のは体を震わせ、負傷した傷口を思いっきり掴んだ。
恐怖とは別の苦悶の表情が浮かぶ。
「やめろ!」
思わず怒鳴りつけ、腕を取っても、の視点は定まらないまま。
「―――なんであたしだけ追いてっちゃったの?追いかけてくるって言ってたのに。なんでみんなあたしを置いていなくなっちゃうの。もうやだ―――ひとりはイヤ―――あたしも連れてってよっ!」
「!」
錯乱するの体を抱きしめる。
血の匂いがする―――
少しキツイかなと思うくらい。
でも力加減が出来ない。
「1人じゃねェ―――お前ェは1人じゃねーよ。いっつも人に囲まれて笑ってた。今は1人かも知れねェけどっ、みんないるから。俺がいるからっ!俺は絶対を置いていなくなったりしないから!」
「ひとり」だ何て言うなよ。
こんな俺の中に居座っているくせに。
これでお前が「ひとり」なら、俺は一体何なんだ。
「沖田、さん?」
「っ―――総悟。総悟って呼んでくだせィ」
呼び名はに委ねた結果「沖田さん」で納まった。
彼女にとっての年の差を考えれば当然とも言える。
強要する気は無い。
元に戻れば済む事だから。
だけど今だけは。
「そうご―――?」
小さく呼ぶ声に、声もなくその体を抱きしめる。
今、何か言ったら泣いてしまいそうだった。
俺はの側にいる連中の中でも、突然いなくなる確率の高い人間だ。
でも、こんなを置いてどこかへ行けるか。
何があっても。
絶対に戻ってくるから。
例え四肢を吹き飛ばされても、心臓を刃で貫かれても、絶対に戻ってくるから。
戻って一緒に連れて行くから。
だからもう泣かないで――――――