32.藍の空
江戸の空は黒くない。
くすんだ空に夜が更けても消えることのない街の灯りが反射して、淡く紫色に光って見える。
この世界でも大気汚染は進んでいるのかと諦めにも似た気持ちが胸に浮かぶ。
主な要因は街中にそびえ立つターミナルだろう。
昼間は気付かないが、建物全体が発光している。
江戸の空は黒くない。
だから、黒ずくめの彼の姿はすぐに目に入った。
「・・・・・・えっと、一応、何してるか聞いてもいいかな?」
「別にいいけど?」
「あ、じゃあ・・・・・・こんな時間にこんなところで何してるの?」
重い灰紫色の空に突如浮かび上がったのはよく知った顔。
普段の見知った簡素な隊服とはまた違う、逆にこの方が目立つのではないかと思うような姿。
つまりは忍者装束に身を包んだ山崎さん。
こんな時間。
黒くない夜空が支配する時間。
こんな所。
真選組屯所、物見櫓の屋根の上。
「芝刈りをしているように見えますか?」
「寝るなら部屋で寝なよ」
せっかくボケてみたのに軽く流される。
確かに面白くなかったのは認めるけど。
「寝ないからこんなところにいるんですよ」
屋根に寝そべり空を見上げたまま、視界の隅に映る黒に答える。
「・・・・・・何か見える?」
「想像以上につまらない空が見えます」
「想像?」
「星を見に来たんだけど、今日は日が悪いのかな?」
「もう梅雨だから空気が湿ってるんだ。冬は、もう少しきれいだけど」
「へー・・・・・・そんなとこまでおんなじだ」
「昔はそんなこと無かったらしいけど、江戸は夜も明るいから」
「山崎さんは星がなくて良かった?」
はっと息を飲む音。
さりげなく会話に乗せたつもりだったけど、どうやら失敗したみたいだった。
「バレてた?」
風下にいる私が微かに感じるのは、血の匂い?
生き物の本能か、嗅ぎ馴れているわけではないソレに、すぐ気が付いた。
月一のモノとも、精肉売場とも、ましてや魚をさばいた時とも違う匂い。
「バレバレですよ。大変ですね。夜遅くまで」
「・・・・・・怖い?」
「はい?」
「気付いてるんでしょ?俺が今人を殺してきたのを」
鼻から下を覆う布の下で、恐らくその口は皮肉気に歪んでいるのだろう。
なるほど、人を殺した後だったのか。
匂いの元が返り血だと分かり内心胸をなで下ろす。
「殺してきたのは、私の家族?」
身を起こし、薄い闇を纏う彼に近づく。
一歩歩くごとに瓦が鳴ってスマートに決まらないなぁとこっそり苦笑する。
「え?」
「気が高ぶって私まで殺す?」
「何言って・・・・・・そんなわけ・・・・・・」
突飛とも思える私の問いに戸惑う山崎さんの元にようやくたどり着く。
口元を隠す布を引き下げるとやはり戸惑いの表情。
ざっと見たところ、血痕らしきものは見当たらない。
色濃く香るこれは移り香だというなら、血の執念深さは計り知れない。
「じゃあ怖くないよ」
果たして私はちゃんと笑えているだろうか。
「怪我は?」
「ないよ」
「そう・・・・・・お夜食食べる?お茶だけでも」
「うん。貰う」
失敗したかも知れない。
あそこは気づかない振りをしてやり過ごすべきだったか。
だけど、真選組に身を置かせて貰っている以上、避けてはいけない気がした。
軽やかに屋根から飛び降りる姿はさすがとしか言えない。
私だってゆっくり慎重にやれば確実に降りられる。
だけどそんなに待たせる訳にも行かないから下で受け止めて貰ったら、かなり驚いた顔をされた。
人を殺してきたというその腕で抱き抱えられても嫌悪感は浮かばなかったことに、一先ず安心する。
◇◇◇
山崎さんには簡単なお茶漬けを用意して、私はお茶だけお供する。
机を挟んで言葉少なに対峙している向こう側で、彼は一体何を考えているのだろう。
あまり気まずそうに見えない、むしろいつもと何ら変わらない様子は、意識している私の方が逆に変なんじゃないかと思わせる。
「ご馳走様でした」
「いいえ。おいしかった?」
「うん。もちろん」
「よかった」
お休みなさいと別れた山崎さんは副長の部屋へと向かっていった。
まだ彼の仕事は終わらないのだろうか。
私は今度こそ完全に食堂の火を落とし、自室に足を向ける。
怖くないと言ったら嘘になる。
それは山崎さんや、真選組に限ったことではなく、いとも簡単に命のやり取りがされている「江戸」に向けられたもので。
元の世界にいたなら一生相見える予定の無かった「人殺し」。
命は変わらず尊いものだけど、それを奪うことも仕方なしとする正義。
自分の価値観が、激変した世界観に押しつぶされそうだ。
考えなくては。
また彼に心配をかけるわけにはいかない。
きっと誰よりも血を流しているであろう彼には。